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「北方」に寄せて 木村玲奈




私は「北方」で生まれ育ち、今は東京で暮らしている。 こちらに来て13年が経った。


「北方」:北の方、北の方面 ⇔ 南方


生まれ育った土地で暮らしていた頃、そこが「北方」だと考えたことがなかった。冬はもちろん雪が降るし、気温も下がるので、そういった意味で北国感のようなことは身をもって感じていたけれど、そこで生きる者としては普通のことだったし、自分の身体を中心にした狭いエリアにおいての東西南北の感覚が全てだった。


私が初めて「北方」を意識したのは、家族旅行で東京を訪れた小学5年 (10歳) の時。

私も両親も方言を話していた。といっても、当時は自分のまわりの世界が全てだったから、私たちが「なまっている」とか「方言」と呼ばれるイントネーションで話すことさえ意識していなかった。テレビから日々標準語が聞こえてきたけれど、自分とは(自分が居るところとは)とても遠い感じがしていた。東京というところが本当に存在しているのかわからないような、架空のところのような、それくらい自分が暮らしていた土地の風土や言葉を当たり前に信じて受け入れていたのだと思う。もう30年くらい前の話になるので、インターネットも普及していなかったから尚更だ。それが突然、東京という都会がリアルに感じられ、そこが起点・中心となった時、私たちは「北からやって来た なまっている人たち」と分類されるのだと知り、小学生ながらに自分の当たり前の生活や暮らし、習慣や言葉がなんだかとても恥ずかしいもの(劣っているよう) な気がした。


「北方」は、「北方」より南の土地、もしくは中心のようなところ(都会 / ある文化の中心のようなところ) に身や視点を置いて、そこから北を眺め、北の方を捉え直したり整理したり分類したり、理解しようとすることなのだと、今となっては理解している。


私の父はどこへ行っても自分の言葉(方言)で話す。初めての東京旅行の時も、その後も、「北方」から南方を訪れた時、父の方言が恥ずかしくて仕方なかった。恥ずかしいからやめてほしいと言っても、直す事はできないしこれが自分の言葉だから何も恥ずかしくないんだと言っていた。唯一の難点は、何度話しても意味が通じないことくらいだと笑っていた。そんな父の感覚を、今となってはすごく理解できる。

父の中心はいつも、どこに行っても堂々と「北方」だった。


私は現在、身体の中心に「北方」の言葉や感覚が在り続けながら、東京で標準語と呼ばれる言葉を話し、東京の風土を感じながら生きている。上京当時は、自分の中に本当の自分 (「北方」で形成された何か)と偽りの自分(南方でのふるまい)が居るようで非常に気持ちが悪く、ちょうどいい塩梅の在り方を見つけるまで何年もかかった。そのちょうどいい塩梅というのは、自分の視点や感覚をどこに置くのか、持つのか、に関係した。


東京に視点や感覚を置き、故郷のあたりを「北方」として捉え直したり整理するには、東京を知る必要が私にはあった。それに気づいてからずっと、東京を知る・感じる時を過ごしている。その時の中で、本当に少しずつ私の中心は東京に変化し、やっと東京という土地に身を置くことができるようになった。こういうことを自然に、時間をかけずにできる人もきっといるだろうに、自分は時間がかかってしまう。まわり道というか、道草だらけというか、そうしないと前に進めないのだから仕方ない。しかも最近ではそんな道草が楽しいとさえ思い、気に入ってしまっているのだから仕方ない。そんな道草は、私のダンス作品の種やヒントを見つけるきっかけになっていたり、創作過程・作品内容にも大きく影響してきた。



道草で思い出す「北方」の道について書こうと思う。小さい頃から何度も何度も通過した道、橋、川。「北方」は車社会なのでどちらかというと車に乗って通過したことの方が多い気もするが、まだ私が「北方」のある場所に勤務していた時、帰りは毎日歩いてここを通過していた。この道は、寺山修司の高校への通学路でもあったらしい。だいぶ大人になってから彼の本を読み、同じ道、橋、川を通過していたことを知った。彼はどんなことを思いながらここを歩いていたのだろうか。




ここから一気に抽象的な話が続くので、先に謝っておきます。意味不明な方、ごめんなさい。


私の「北方」は、この写真にギュッと凝縮されているような感覚がある。

全体のイメージ色は深い水浅葱(みずあさぎ)色で、グレーの冷たい何かが天や身体のまわりを取り巻いている。その中にあまり自由は無い。でも自分で見つければどこまでも深い穴があって、そのずっとずっと先に自由があるかもしれない、もしくはその穴を自分で掘ることが自由なのかもしれない。真ん中には常にギュッと結ばれた塊があり、時々疼く。時にはそれが原動力でもあり、時にはそれが足を引っ張る(邪魔になる)。人は多くないのに目は多く、常に誰かが何かを見ている。どちらかというと地面からのエネルギーが強く、身体が下に引っ張られる。「ああ、どこまでもひとりなんだ」と感じさせられる。それでも線は続いていく。その線は曲線というよりは直線。横に伸びる線、下に向かう線、上に伸びる線、斜めに逃げようとする線、そしてそれらの交わるところには、やっぱり塊のような点。そういうものを、私は携えている。東京に来てから、自分はどうしようもなく「北方」で形成されたということを自覚する毎日。この事実から逃げることはできない。時々逃げたくなるけれど、もうどうしようもないのだ。


こう書くとマイナスイメージっぽいが、私は自分の中にある「北方」を時々疎ましく思いながらも、とても愛している。愛しながら日々整理し、客観的に眺めてみようとする。そして作品 (ダンス)として自分なりの「北方」をこの世と後世に残している。故郷を出て驚くのは、「北方」が好きだったり、憧れを持っている方も多いということだ。どの土地でもそうだと思うが、良いことばかりじゃないのに、と思ったりする。実際に寒いとか雪が多いとか仕事が少ないとか、関わる人が限られている生活やしがらみには、都会には無い大変さがある。そういうことを経験し、心底そこで形成され、「北方」を離れた人間がつくった・残した何か(それはおそらく「北方」をそれぞれが捉え直し整理して、改めて再提示したこと、もしくは、どうしたって「北方」で形成されてしまったことへの応答)を多くの方が愛してくださっているのかな、と自分なりに解釈している。再提示や応答がどうして愛されるのか、人は一体何を求めているのか、これからも考え続けていきたい。


今はインターネットも普及し、「北方」でも南方でも変わらずに情報や物が手に入るようになっているので、若い人たちの中にある「北方」と私の中の「北方」は異なるだろう。テレビからも王林ちゃんの津軽弁が聞こえてくるようになって、少しホッとするような「やっと人間になれた」感のような、不思議な感じがする。SNSなどで「北方」から全世界へ発信している人もいるこの世の中、変わらないことってあるのだろうか?


「北方」から世に出た過去の偉人たちと、「北方」を携えた自分、そして今「北方」で暮らす若い人たち、これから先「北方」に生まれる未来の人たち、そこに共通する何かがあるのか、無いのか気になる。ザルでこせばきっと何かが残る、そんな気がする。でも、それは「北方」と括るから残るもので、そうなったら国籍や人種、性別、人間、動物、植物、物、事などいろいろなことでの括りを考えてしまう。共通点も差異も挙げたらキリが無い。


じゃあそんな中どう進んでいくのかと考えた時、括らないという選択肢もあるだろうし、軸や起点を決めて括ることで感じられる共通点や差異を、愛していくことなのかなと今は感じている。


愛と憎しみは紙一重だよな、と思いながら亀のように進む。





木村玲奈 Reina Kimura

振付家・ダンサー。ダンスは誰のために在るのか、ダンスそのもの・ダンス活動・作品・公演の構造を問いながら、創作・作品提示を展開する。また、風土や言葉と身体の関係、人の在り方 / 生き方に興味をもち、国内外様々な土地でリサーチ・創作・上演等を行う。主な振付作品に『6steps』『どこかで生まれて、どこかで暮らす。』『接点』がある。’19 – ’20 セゾン・フェローⅠ。’20 – 東京郊外に『糸口』という小さな場・拠点を構え、土地や社会と緩やかに繋がりながら、発表だけにとどまらない実験と交流の場を運営している。 https://reinakimura.com


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