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来なかった「戯曲の時代」のための序文 山田カイル

 


私は間違っていた。世界中でロックダウン措置が取られたとき、日本の演劇人はついに、新しい上演を無限に作り続けることから解放されると思った。まったくもって甘かったと言わざるを得ない。劇場に集い、上演を続けるための努力を続行することに−つまり、消費形態としての「観劇行為」を生きながらえさせることばかりに−公的な資金が投入された事もあって、生殺与奪を握られた演劇人たちは、跋扈する感染症をかいくぐりながら、必死で劇場に集まり続けた。公的な資金を獲得するという事以外のあらゆる「劇場に集う意味」を見失いながら。しかし、この「集まる意味」の喪失は、今に始まったことではない。そうも言い得るだろう。


 私は間違っていた。これまで、劇場に集い、そこで、一般に感情とか歴史とか呼ばれる何かを共有することにのみ演劇の価値はあるのだと信じて止まなかった人々が、感染症下で継続可能な演劇実践の探求を通して、むしろ「何かを共有しない」ためにこそ演劇は使われて然るべきだという、ちょうど百年ほど前に生きた一人の劇作家が掲げた理想に立ち帰るのではないかと考えた。そうはならなかった。むしろ人々は、新しいメディアとテクノロジーを駆使して、古い「集まり」への欲望を満たす方法を模索し続けた。そうした無数の試みのなかには、一定程度の経済的成功を収めたものもある。しかし、いくら上手に集まってみせたところで、その試みが、感染症が(あるいは、新自由主義が)社会にもたらした圧倒的な孤独と根本的に向き合っているようには、私には思えなかった。そして、この「集まった効果」の喪失もまた、これといって新しい現象ではない。


 我々は集まりすぎている。そのことは明らかだろう。都市の脆弱性が露わになり、意味ある芸術活動を持続するためには、演劇の実践者はむしろ都市と距離を取りながら、ガスマスクをつけたノマドの一群として各地を旅し、土地ごとの芸術の形に出会い、種をもらい、また別の土地にその種を植えて回るようになるだろう。私はそう考えた。そして、ご存じのとおり、またもや私は間違っていた。感染症が浮き彫りにしたのは、多くの地方都市は、首都圏の用意する「都会的なお芸術」コンテンツのフランチャイズでしかない、という事実だ。しかし、この事実もまた、そのフランチャイズの一つにすらなれない小都市で生まれ育った人間の視点からは、常に自明の事実であった。


 私たちはこの二年間、既に知っていたはずの事実をいくつも鼻先に突きつけられながら、その事実のいずれにも、有効に対応することができなかった。集まる意味を見失い、とりあえず集まってみてもその効果を実感できず、そもそも、外部資本の助けなしには、集まることすらできなくなっている。その事実の前に、ヘッドライトを直視した鹿のように、硬直して突っ立っているのだ。


 この危機的な状況に対して、誰でも取り組むことのできる遅効性の処方箋が一つだけあるとすれば、それは、戯曲を読み、あるいは書くことだと、私は主張したい。


 戯曲は孤独なメディアである。戯曲は集まりではない。ある集まりの「意味」と「効果」そのものが書かれたものを、我々は戯曲と呼んできた。戯曲とは、こんな風に集うことができたなら、と夢想することである。集まったことでこんな風になれたなら、と、夢想することである。そして、その夢想が根本的には非現実的であることを共に確認する蛮勇を、私たちは上演と呼んだのではなかったか。


 戯曲は、孤独からしか生まれない。だのに私たちは、集まることばかり求められ、集まる方法ばかり考えているなかで、孤独になる方法を忘れかけているのではないか。だが、何かしらの孤独を抱えていない人間が、劇場へ行こうなどと考えるだろうか?何かしらの孤独を抱えていない人間が、他人の言葉に耳を傾け、この世界には確かに身体というものがあると確認し、存在というもの自体の深淵を覗き込むことなど、考えるだろうか。「集まり」に固執するあまり、我々はあらゆる演劇行為の源泉であるはずの、誰かと共有することのできないほどの孤独を、合わせ鏡の無限の連なりのなかに置き去りにしてきてしまったのではないか。


 「石版と織物」という誌名は、同人の小野晃太郎発案のタイトルである。戯曲のことを、英語では Script といったり、Text といったりする。それぞれ「石版」と「織物」の事である。


 太古から、人は集まって物語することを愛した。ある夜、宴席を囲んで物語する我々の先祖のなかに、ふと、この場に集まっていない人たちに物語を伝える方法がない、という事に思い当たった者がいた。かの人は静かに宴席を離れ、手頃な岩と尖った石を見つけ、ひとり、物語を刻み始めた。その作業は夜を徹したが、誰も気づく者はなかった。しかし言わずもがな、千年後に残るのは、楽しい宴席の思い出ではなく、一人黙々と削り穿たれた岩盤だ。我々のこの先祖の孤独に思い当たる人なら誰でも劇作家であり、戯曲を書いたことがあるはずなのである。


 本誌を、そうして孤独に生み出された石版や織物を、人々が使いこなす事ができるようになるまで、安全に保管することのできる場所にしたいと、切に思う。




山田カイル


photo: Megumi Oku


抗原劇場代表。1993年テキサスに生まれ、その後青森で育つ。大学院在籍中にダンスドラマトゥルクとしてキャリアをスタート。近作に、翻訳する身体のディストーションをダンスと仮面劇に昇華した『後ほどの憑依(TransLater)』(2015/2020)、ブラッドベリの小説に着想を得たアートプロジェクト『華氏同盟』(2021)、IWATE AIR/AIRの成果として上演した『夜明けの国のコッコ・ドゥードゥル・ドゥー』など。







このテクストは「石版と織物」創刊号でもお読みいただけます。







助成:おおさか創造千島財団 創造的場づくり助成


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